増田健太郎 公式サイト

スペインへの思い

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〜ストイックな31歳〜

02年の全日本選手権でベスト4。同年代は引退している選手が多い中、彼は進化していた。なぜ31歳にして上達できたのか。27歳で拠点をスペインに移し、その後4年の歳月を経て、やっと変化を実感するに至った。彼の妥協を許さないテニスへの取り組みは、感動に値するものがある。

  目を疑った。増田健太郎はこんなに威力のあるボールを打つ選手だっただろうか。02年全日本選手権の準決勝で本村剛一と対戦している増田は31歳だというのに、今までの“拾いまくる”というイメージを覆すほどの変化を見せていたのだ。
 上達の要因を聞くと、「スペインに行った成果です」と言う。しかし、それだけではない。167cmの彼が「自分から打っていけるボール」に近づくまでには、漫画の主人公になれそうなほどの凄まじい努力と小さい頃からの積み重ねがあったのだ。
 26歳の増田は岐路に立っていた。アジア遠征でポイントを取り、翌年はそのポイントを守るためにまた遠征に行く。ランキングは300位ぐらいから変わらず、自分の実力も変わらない。同じことを何年も繰り返して思った。「こんなことを続けていても無意味だ」と。ここで、自分の実力を上げるためにアジアでなくレベルの高いヨーロッパ遠征に行く賭けに出た。しかし、その結果は散々だった。もう勝てないのか。もう成長することはないのか。どん底に落ち込んでいた増田の脳裏に引退の文字がちらついていた。
 暗中模索の状態からの脱出は、日本の大会で優勝した時の副賞の一つだった、スペインのクラブのキャンプに参加したときに訪れた。初めて、外国人がどういう練習をして力をつけているのか、試合では見ることのできない裏の部分を知ることができたのだ。増田は探し続けた答えをやっと見つけた。
「練習を始めた瞬間、目の前からヒヨコが出て大変でした。もうきつくて、きつくて。よく走るし、球を打つ数がいきなり3倍。手にマメができましたから。プロなのに恥ずかしいですよね。でも、初日の練習で拠点はここだって決めました」。
「18歳の時から遠征していてずっと、『どうして海外の選手はあんなに伸びるのか』と疑問でした。サテライトで戦っていた選手が次に会った時には明らかに強くなっているんです。どうしてなのか全然理解できず、外国人って違うな、スゴイなで終わっていました。スペインに来てやっとそれが外国人と日本人の差ではなく、やっているこの差なんだと知りました。だから同じことをすれば強くなれると思ったんですよ」。
 27歳の増田は水を得た魚のように、がむしゃらにテニスに取り組んだ。やることがはっきりした以上、あとは自分の努力次第なのだ。「もう必死でやりました。スペイン人はその練習を子供のころからしていますから、彼らより頑張らないと勝てないという気持ちでやりました」。練習中はもちろん、オフコートでもテニスに不要なことを全て排除し、練習に万全の態勢で臨めるような生活を続けた。『日本人は頑張る』というイメージが定着するほどテニスに没頭し、一年半が過ぎたときには、スタッフもその意気込みを認め100位ぐらいの選手と一緒に練習できるという最高の環境が整ったのだ。
 そんな矢先、悲劇は起こった。あまりに酷使しすぎたために手首が悲鳴を上げ、手術を余儀なくされた。再びどん底に叩きつけられた。これからというときになぜケガなのか。しかし、ケガを避ける方法はなかったのかもしれない。スペインで、普通に練習していただけではレベルは向上しないし、周囲も認めてはくれない。限界まで自分を追い込むことができた彼だからこそ辿りつけた上達への道だったのだ。
「海外留学に来たら強くなれると思っている人って結構いるんですよね。そんなの大間違いです。やっとスタートラインに並んだだけのことなんです。そこから全力で走っていかないと結果なんか出ないですよ」。
 増田は全力以上で走ったわけだが、そこまでストイックに自分を酷使できるのには理由があった。
 彼の両親は息子をテニス選手にするために最適と思われる環境を与えてきた。学校から帰宅後にプライベートレッスン、その後スクールに行き帰ってくるのは10時頃という生活。加えて、家の近くの土地を借りてプレハブを建て、オートマシーンを買い、雨でもいつでも練習できるようにした。ニック・ボロテリーが来日し、小学6年生の増田を見て両親に留学の話を持ちかけた時、まだ円安の時代だったため、父親の退職金の一部を前借してアメリカに送り出した。増田家は全て、息子のテニスを最優先に物事が回っていた。徹底したテニス一色の環境の中で彼は何を思っていたのだろうか。
「正直に言うと、友達が誘いに来れば遊びに行きたい気持ちが9割で1割が責任でした。子供心にね」。親の真剣さを理解していたから、誘惑より責任が勝ち続けた。少年時代から、誘惑よりもテニスを優先させることを身につけてきたことが、スペインでどっぷりテニスだけの生活に浸れる基盤となっているのだ。
 ハードなトレーニングに耐えるだけの体力を持っていたという点では、小学生から高校卒業まで続けられた朝のランニングと、トレーニングの大切さを認識した出来事が関係している。
 増田は全日本選手権を93年、94年と連覇しているが、実はこの94年の時は、テニスエルボーのため全日本以外の大会は何も出場していなかった。テニスができなかった期間は「今自分がやるのもちょっといやなぐらい」ひたすら走って、ウェイトもした。全日本の2週間前までラケットを握ることさえできない状態で、大会に出場し優勝できてしまった。まさに鍛えた身体だけで勝利を手に入れたのだ。この時にトレーニングの重要性を知り、身体を鍛えていたからこそ、スペイン人以上に過酷な練習に耐えられるだけの身体ができていた。想像を超える負荷がかかってしまった手首以外は。
 スペインに拠点を移した時に言われたことが、「2年は頑張らないと結果は出てこないよ」ということ。手首の手術から再び試合に出場するまで1年半の月日を要した。復帰してから、実質2年が過ぎようとしたとき、彼は確かな手ごたえをつかんだ。
 02年の全日本準決勝の本村戦のスコアは4-6 6-3 2-6 4-6。始めから5セットの最後まで同じレベルで体力を維持できる準備があった増田は、最後の最後まで試合をひっくり返せる可能性を持っていた。負けはしたが、「ヨーロッパ遠征を始めたころから、自分がボールを打てるようになりたかった。それに向け一歩ずつ変わってきていると実感できるようになってきました。自分が優勝した93年のときより確実にレベルは上がっていると思います」という彼からは自信が感じられた。それは、自分にできる最大限の努力をしているという誇りからでる表情だったように思う。
「向上している間は辞められないですよ」と言う増田は、プロ1年目の小川敦央と一緒にスペインで生活している。「この年になって1人で追い込むのはすごくキツイんですよ。でも、自分が『これやるぞ』って言ったらやるしかないじゃないですか。きついトレーニングも2人だからできたというのはあります」と笑う。増田は一緒に生活することによって、「テニスに害になることはしない」「テニスをするための自己管理」など、オフコートでの大切な部分を感じ取って欲しいという。お互いに刺激しあいながら今の生活を続けていけば、今後もレベルアップし観客に驚きを与えてくれるだろう。テニス道を追求するためにも、テニス界のためにも少しでも長く現役を続け、テニスに対する真摯な姿勢を若手テニス選手に見せ続けてほしいと願う。

(スマッシュより抜粋。この原稿の無断転用を禁じます)
2003年7月9日UP


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・スマッシュ1999年11月号記事